zjoyman's blog

眠れる獅子が動き出す!こんなものではありませんよ!ダメリーマンがついに目覚めた!本当の幸せを掴むために日々実践して行く行動記録がここに!

会話のキャッチボールって(異性編)

LINEになかなか返信しないのに、向こうからLINEしてきたとき返すと電話が来る。長電話。
なんだこれ?何話そうかすごい悩んで返せないのかな、にしてもいきなり電話とか、返信にすごい悩む人のすることではないか。
自分が話したいときだけ話したいか。
これもあったときは、いろいろ気を使ってこっちの話を引き立ててたし違うかな
チャンスを逃したくないから頑張ってるだけ
これかな?そのうち電話こなくなります笑
自虐ネタで同意を求めてきても安易に同調しない。
たとえば、
こんな話どうでもいいよね
→いや、みんなどうでもいい話ばっかしてるしいいんじゃない?
→えっそれって私の話がどうでもいいってこと?
こっからの切り返しどうする?
結構レベルたかしくん


リミットレス

リミットレス

これは最近見た映画で非常に面白かったので紹介したい。

いつも冴えない小説家がある薬を飲み、その結果、頭脳明晰になり、その頭脳を活かして株で大儲け、成功したセレブらと知的な交遊をし、成功の階段を登っていくという話だが、話はそこで終わらず、その薬は、一定時間のみ有効、切れた途端元の木阿弥になるどころか、以前よりもさらに冴えなくなり、また依存性もある薬である。この薬の特性・効果を知るものから狙われる羽目になるが、命からがらなんとか生還、生還後は、訓練により薬を断ち、さらに、その頭脳の明晰さも保つどころか強化されており、果ては大統領候補戦にも出馬するまでが描かれている映画である。

この映画で一番好きな場面は、薬を飲んだ途端、周りの景色が一変し、これまでのどんよりした視界から一変、非常にクリアになり、どんな危機的な状況に陥っていたとしても、瞬時に状況を把握・分析し、その場で解決法を出す・行動に移す場面である。鮮やかすぎるほどのクリアな視界。本当に頭がクリアになる状態というのは、まさしくそのような状態なのであろう。

お客様とは

接客がコミュニケーションと捉えた時、一方的に客が偉いという状態がなくなる。客には最低限度の節度を持ってもらう。客と店員は対等な立場である。客は商品を買ってやるという立場はあるにしても、コミュニケーションをする上で絶対的な立場ではない。
どうも日本人は客を神格化しすぎている。それが過剰なサービス、不毛な価格競争を産み、果ては、ブラック企業をも生み出すことになる。
金を払って買ってやると言っても、だから態度が悪いとか、土下座しろとかそんなことにはならない。サービスとは金になる。

リアクションについて

人に言われたことに対する反応の仕方(リアクション)っていろいろあって、脊髄反射的に反応しちゃう人って、責任感が強い人におおいのかな。義務感や使命感に捕らわれて、求められてもない説明責任を感じて、自分に不利な回答してしまう。博打と一緒で思わず反応しちゃう人はいい方向にも悪い方向にも転ぶので、有る程度はどう答えたらいいか、予想した上で答えないと次に活かせないよね。
あとは、自己保身に走っちゃう人もいる。要は言い訳なんだけど、これすると自分の首を絞める気がする。
あとは、適当にはぐらかしたり、とぼけたりする人もいる。で、最もアコギだなて思うのが、相手に対して、発言自体を後悔させるような、自責の念に駆られるようなそんな言動をとる人。
直接的な発言はせず、態度に表すのかな。
なにいってんだこいつとか、そうゆう態度をとってみたりする。でも、口では、無言だったり、丁寧な説明したり。
面白いリアクションて誰得なのかな。もちろん自分にとって得なリアクションすることかな。

書くことでどこへども行ける

  自分の考えていることを、なるべくノートに書いて記録するようにしている。書くことが考えを整理するいいツールになっている。
  このツールというか習慣は、仕事の中でも使っていて、例えば、資料作成のときも、最初からPC使うのではなくまずはノートに書いて、ある程度考えを整理してからにすると捗る。
  別に仕事とか、難しいことを考えるときだけでなくとも、日常の中の他愛のないことについても使える。書くという行為は、自分の思考を深くすることができて、書かないよりは、書いた方が断然いい。普段なら素通りするような些細なことでも、深く、広く、考えることができるようになっている気がする。
  ただ、この書くという行為自体を毎日続けるのはちょっと難しく、なかなか習慣化しない。いろいろ効果のある書くという行為。是非とも習慣にしたい。そこで、今回、書くということの効果とかメリットについて、自分なりに分析してみようと思う。こうすることで、書くこと自体にモチベーションがあがると思ったからだ。
 
①書くという行為には、自分自身との会話である
  書いたことに対して、書く。また、それに反応して書く。あとで見返して、過去の自分が書いたことに対して、今の自分が気づいたこと、考えたことを書く。これって、過去の自分との会話である。会話をすることで、より考えが深化する。
 
②気軽に議論できる。
  人と議論することは、非常に難しい。機会もないし、議論しようとすると角がたつので議論の相手を見つけることはそうそうできない。けれども、書くことで、議論に近いものにすることができる。例えば、あるテーマに対して、思ったことを書く。それに対して、少し批判的なことを書く。視点を変えて書くこともできる。ノートの真ん中に線を引き、左と右とで異なる視点から書けるように工夫することもできる。
 
③表現力があがる。
  書く時は、物事を客観的に意味がわかるように表現しようとする。
 
④書いた記録が残る。
  過去に書いたことが残るので、見返せる。同じことを書かないよう、書いても違ったニュアンスで書こうとする。また、書いた経緯がわかるので自然とロジカルに書けるようになる。

 

人生の充実度を図るバロメーター

自分の人生充実していたな、悔いなしと死に際に思えるのであればどんなに幸せだろうなと思う。
死に際には、人生を振り返ってみて楽しかった思い出が浮かぶだろう。
その楽しかった思い出の中にいた人たちと今でも連絡がとれ、死に際に駆けつけてくれること。
楽しい思い出というのは、自分のこれまでやってきた成果であり、その成果をともにした人が自分のために時間を割いて駆けつけてくれるということは、その人たちの中でも自分という存在が少なからず、小さくない存在であるということ、そのことを自分が気づいて、幸せだとか、充実していたなぁって思えるのである。
死に際でなくても、結婚式とか昇進祝いとか誕生日などの自分のイベントに人が来てくれるかどうかが自分のこれまでの人生の充実度を図るバロメーターとなると思う。

考え続けることで何が生まれるか。

考え続けることで何が生まれるのか。
そこを論じる前に、なぜ考えないかについて考えたい。
正直考えない方が楽である。人からあるいは巷に溢れている常識とされていることとか、数多くの常識があるけれども、その常識を正しいものとして、自分の意見にしてしまえばこんな楽なことなんてない。
しかも、その常識は、常識としてお墨付きをもらっており、自分で正しさの証明をする必要はない。
例えば、仮に、悪意のある意図的な情報を流されたとしても、果たしてそれを見抜くことが出来るだろうかなんて思う。
しかも、本当にその情報が正しいのか考えないのでどんどん広がっていき、嘘も規制事実化し、本当になっていく。
例え、嘘でなくても、きれいな当たり障りのない空虚な、実態を反映していない事実が正しいものになっていくかもしれない。
世間は誤用で溢れかえっているのではないか、でも、いつの日かはその常識も間違えているのではないかときっと気づくのでは?なんて思ったけれども、気づかないふりも出来るし、いくらでも言い訳なんて言えてしまう。コミュニケーションが足りてないから、失敗から学べば良い、まだまだ経験がたりない、とか上っ面の非常に抽象化された誰にでも当てはまるワード。その言葉は伝家の宝刀であり、それ以上の反論は許さずにみなが思考停止するものである。それは、どこの誰かが言っていた聞いたことのある文句。聞いたことがあるので、皆が納得する。初めて聞いた時は無批判な故に、正しいものと頭に刷り込まれてしまう。その時点でアウト。
 
その悪循環を断ち切りたい。
 
今一度、自分が使っている言葉を疑おうと思う。自分の頭で考えたのではなく、刷り込まれたもので、正しいと思い込んでいるのではないかと。
 
考え続けることで何が生まれるか、それは、自由であると思う。自分の頭で考え、誰からも左右されない完全なる自由であると。
考え続けることは苦しいことである。自由には責任も伴う。誰のせいにもできない。ただ、それが本当の自由だと思う。